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チェコ・日 政治関係史(過去と現在)

 はじめに
 チェコ共和国は、旧チェコスロヴァキアの後を継ぎ、1993年1月に誕生した国家です。誕生から日は浅いものの、歴史は非常に豊かであり、その起源は5世紀からはじまっています。
 日本とチェコは地理的に離れているものの、両国間の関係は伝統的に良好です。日本人とチェコ人の最初の出会いは数世紀前までさかのぼることができ、またチェコ・日間の正式な関係の起源も、まだチェコがオーストリア・ハンガリー帝国の一部であった時代にあります。
 第一次世界大戦後、独立を果たしたチェコスロヴァキアを日本が承認したのは、1920年のことでした。その後、第二次世界大戦による中断はあったものの、両国の関係は時代とともに深まり、1993年のチェコスロヴァキア解体後、日本はチェコ共和国をただちに承認しました。
 今日のチェコ・日間における活発な相互交流は、現在お互いが持つ高い関心を反映しているだけでなく、歴史的な相互交流によるものでもあります。以下は、両国間における相互交流の概略です。

 外交関係のはじまりと大戦間期における発展
 正式な外交関係の成立を前にして、すでに日本とチェコは互いに協力していました。第一次世界大戦末期、ロシア国内に残されたチェコスロヴァキア軍団のために、日本はおもに物資と輸送手段を提供し、支援しました。
 1918年9月、日本政府は、チェコスロヴァキア国民委員会がチェコスロヴァキア軍団に対し統治権を持っていることを承認し、同年11月には、東京にチェコスロヴァキア軍団の代表部が開設されました。代表はヴァーツラフ・ニェメツでした。しかしながら、ニェメツはチェコスロヴァキア共和国外務省の所属ではなかったため、その権限は制限を免れませんでした。
 日本とチェコスロヴァキア共和国の正式な外交関係は、 1920年1月12日に開設されました。初代駐日チェコスロヴァキア共和国公使は、カレル・ペルグレルです。20年4月14日に、ペルグレルは天皇に信任状を捧呈しました。また翌年10月17日には、プラハに日本公使館が開設されました。初代駐チェコスロヴァキア共和国日本公使は、長岡春一です。さらに 1927年には、プラハに名誉領事館が開設されました。
 高松宮御夫妻のチェコスロヴァキア御訪問で、両国の大戦間期の政治関係は頂点を迎えました。ただし、この時期、両国の相互関係は、おもに商業の分野に限られていました。

 第二次世界大戦
 1939年3月16日、日本政府はチェコスロヴァキア共和国との外交関係を断ち、チェコスロヴァキアの独立国としての承認も、取り消されました。駐日公使館は、ただちにドイツの権力下におかれ、また日本に開設されていた名誉領事館4館も、ドイツ側に接収されました。
 公使館をあけわたした駐日公使F・ハヴリーチェクは、その後も日本や極東の情報をチェコスロヴァキアの亡命者たちに伝えることにつとめました。また、エドゥアルド・ベネシュ大統領に、ロンドンのチェコスロヴァキア国民委員会行きを志願しました。しかし彼が、ロンドンに到着したのは、日本で一年間投獄をされたのちでした。 1941年12月9日にチェコスロヴァキア亡命政府は日本に対して宣戦を布告しました。そして、終戦を迎えた1945年に、チェコスロヴァキアは、日本の降伏と戦後復興に関する協定を受け入れました。

 日本と共産党政権下のチェコスロヴァキア関係
 1948年以降のチェコスロヴァキア=日本関係は日本・ソ連関係の発展に伴って進むことになります。1956年に行われた日ソ共同宣言を受け、 日本とチェコスロヴァキアの国交が回復したのは、1957年2月13日のことでした。初代駐日チェコスロヴァキア社会主義共和国大使に指名されたのはラジスラフ・シモヴィツ、初代駐チェコスロヴァキア社会主義共和国日本大使は木村四郎七でした。
 1957年から1989年までの相互交流においては、両国間に対立はなかったものの、大きな発展もみられませんでした。相互協力は商業、科学、学術研究、文化の分野に限られていました。
 1967年の三木武夫外相のチェコスロヴァキア公式訪問は、二国間関係の転換点であったといえましょう。三木外相の訪問は、日本からチェコスロヴァキア社会主義共和国への初の閣僚の訪問であり、また同年、国連総会において、初めての外相会談(三木・ヴァーツラフ・ダヴィダ)が行われました。
 1968年のワルシャワ条約機構軍のチェコスロヴァキア侵攻に対し、日本は強く抗議しました。その後の数年間、相互交流は限定されたものの、商業関係は前進を続けました。68年末には、経済相ヴァーツラフ・ヴァレシュが日本を公式訪問しました。これはチェコスロヴァキア社会主義共和国から日本への初の閣僚の訪問でした。1970年の大阪万博の際には、 大統領ルドヴィク・スヴォボダの訪日が実現しました。このあとの約20年間、さまざまなレベルにおける相互交流が続きました。

 チェコスロヴァキア連邦共和国
 1990年代のチェコスロヴァキア=日本関係は、大きな変化を迎えました。1990年チェコスロヴァキア連邦共和国を中山太郎外相が、そして日本をイジー・ディーンツビエル外相がそれぞれ訪問しました。また同年アレクサンドル・ドゥプチェク連邦議会議長が、平成天皇即位の礼に出席しました。ドゥプチェク議長は、翌年にも、衆参両院議長に招かれ、日本を公式訪問しています。
 1992年には、チェコスロヴァキア連邦共和国大統領ヴァーツラフ・ハヴェルの日本公式訪問が実現しました。1990年から1992年にかけては、各省間の相互訪問が相次ぎ、さまざまな分野における協議が行われました。

 チェコスロヴァキア解体後の日=チェコ関係
 日本は、1993年1月1日のチェコ共和国の誕生と同時に、同国を承認しました。正式な外交関係は、1993年1月29日に締結されました。初代駐日チェコ共和国大使は、ヤン・ヴィンケルヘーフェル、初代駐チェコ共和国日本大使は、阿曽村邦昭でした。阿曽村大使は最後の駐チェコ連邦共和国日本大使でもありました。
 90年代における政治関係の中で、最も重要な出来事は、1996年のヴァーツラフ・クラウス首相夫妻の日本公式訪問です。天皇皇后両陛下との御会見、また橋本龍太郎首相との首脳会談などが行われました。また、1997年には、池田行彦外相が、1999年にはヤン・カヴァン外相が、それぞれ相手国を訪問しました。 1999年のカヴァン外相訪日の際には、神戸に名誉領事館が開設されました。
 このほか、 90年代には、各省の大臣、次官らの相互訪問が行われました。

 21 世紀初頭の日=チェコ関係
 21世紀に入ると、チェコと日本の、とりわけ商業の分野における発展はめざましく、なかでも、日本からチェコへの投資額は、急激に増加しました。いうまでもなく、相互交流における重要な出来事も相次ぎました。
 天皇皇后両陛下のわが国への初訪問は、 21世紀初頭の最も重要な出来事です。御訪問は、2002年7月でありました。両陛下はヴァーツラフ・ハヴェル大統領、ダグマル大統領夫人と再会されました。また両陛下は、ヴァーツラフ広場、市庁舎、市民会館、プラハ城、聖ヴィート教会等、プラハの歴史的記念碑をご覧になりました。
 2003年8月の小泉純一郎首相の訪問もまた、重要な出来事です。小泉首相はワルシャワ条約機構軍侵攻35周年の前夜、ヴァーツラフ広場にある聖ヴァーツラフ像およびヤン・パラフとヤン・ザイーツの記念碑に献花しました。さらにヴラジミール・シュピドラ首相との首脳会談が行われました。シュピドラ首相主催の夕食会の際には、小泉首相はホンダ製のロボット・アシモ(ASIMO)を親善大使として伴い、チェコの国民的作家、カレル・チャペックに敬意を払いました。チャペックはロボットという言葉を、彼の戯曲『 R.U.R.』においてはじめて使ったことで知られています。また両首相は「日本国とチェコ共和国の戦略的パートナーシップに向けた共同声明」に署名しました。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/kaidan/s_koi/europe_03/index.html 
 2005年、愛知万博の際には、イジー・パロウベク首相が日本を訪問し、小泉首相と首脳会談を行いました。2007年2月には、ヴァーツラフ・クラウス大統領夫妻が日本を訪問しました。 4日の滞在期間中、天皇皇后両陛下との御会見、安倍首相との首脳会談などが行われました。そのほか、大統領は、チェコ・日国交回復50周年記念レセプション、チェコ共和国商工会議所主催のビジネスセミナー、早稲田大学での名誉博士号授与式などに出席し、日本経団連、東京証券取引所などを訪問しました。また広島、大分をそれぞれ訪問しました。広島では平和祈念碑に献花しました。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/czech/visit/0702.html
 このほか2000年から2007年の間には多くの公式訪問が相次ぎました。